Yamagata〜 第52回建築士会全国大会 「やまがた大会 3日間の旅」 |
2009/10/15〜17 reported by Taiki Abe |
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初日(10月15日)木曜日〜最終日(10月17日)土曜日 |
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建築士会の全国大会へは、初めての参加となりました。加えて、東北へは宮城県に一度のみで、山形県は初めてです。初物づくしの3日間。スケジュールを眺めて、「これは予習が必要だ。」と思いながらも前日の夜を迎えてしまいました。地図で山形市の位置を確認し、着替えの準備をするだけで精一杯でした。何という怠慢。 | |
10月15日 | |
山形に向かうということで、いつもより厚着しての搭乗。
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続いて山形上空の写真 山形県は東西を山に囲まれ、内陸の盆地に広がっています。 海に面する都道府県の場合、県庁所在地は海寄りに置かれる場合がほとんどなので、山形市のこのような遠景を見渡していると違和感がありました。 |
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農園地帯であったところを買収して空港が建設されたため、周囲には果樹ばかりが目に入ります。 |
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バスは空港から南下し、山形市内へ向かう途中、川辺で名物の芋煮会の光景を目にしました(豆粒のような写真ですが)。 |
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バスは山形花笠祭りで有名な七日町大通りに入りました。バスでは少し窮屈な通りで、車の出しゃばらない、ヒューマンスケールな通りです。その突き当たりに文翔館のみえる風景が目に入りました。 |
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建築物と災害はくされ縁のようです。明治10年山形県庁として建設された後、山形市北大火事で焼失してしまったといいます。 その後大正5年、設計は米沢市出身の中條精一郎を顧問として、東京都出身の田原新之助が担当し再建されたのが今の形です。その後10年の修理工事を経てH7年大正当時の面影を今に残しています。 西洋のルネッサンス様式を意匠の基とし、細部は複雑ながら整然として落ち着きのある印象です。 |
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大分ならば、大正2年築で、設計は辰野金吾の大分銀行赤煉瓦館。これも修繕、リニューアルを経て当時の形を残し、人々の生活の中で身近な場所となっています。 写真は所長の所蔵。1983年当時、まだ府内会館と呼ばれていた頃のものです。 古きよき物を管理保存しようとする動きが法令として表れたのは明治4年の古器旧物保存方が始まりのようです。明治維新後の廃仏毀釈からの寺院の養護に端を発しており、現在に至るまで保存の意義を追加更新しています。 |
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映画や舞台等でも、古い時代を再現した作品は数多く制作されていますが、歴史に想いを馳せるのは人間の性のようです。眺める度、ノスタルジーという既成の言葉で締めくくるには忍びないなと感傷に浸っていました。 〜中庭はファサードとは雰囲気を替えており、レンガの赤茶色が映えています。 |
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たまたま結婚記念写真を撮影中のカップルがいました。ここが現代の人にとっても特別な場所であることが窺えます。 | |
文翔館を出て、慈恩寺に着いたのは日暮れ前でした。周囲に林立する長大な針葉樹と、重厚な茅葺き屋根が夕日でとけあった様でした。 |
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仏像なども拝見しました。数も多くそれぞれ表情も様々でした。
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最後に記念撮影。古建築を巡っていると大先輩方もまだまだ若い様に思えてきます。 |
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夕食は居酒屋で海産をいただきました。まだ飲み足りないメンバーで、近くの屋台村まで足を運びました。 |
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10月16日 | |
普段朝食は抜きですが、ホテルのバイキングとあっては行かぬは損。 |
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この山形盆地はかなりの広さで、大分市よりも面積は大きいように感じました。駅裏は空地が多く建設予定の模型も展示されていました。
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北に見える山形城は、かつて三の丸まで有し、東西1480m、南北1881mに及んだらしいが、今は二の丸塁濠を残すのみのようです。 | |
「やまがた大会」
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■まちづくり交流プラザ 東京建築士会 女性委員会 バリアフリー部会 「はつらつと住まう」 高齢期に年齢を感じさせないで、はつらつとした生き方をされている方の訪問調査によるケーススタディー。 集合住宅での独居が多く、高齢となっても仕事を軸にライフワーク、集まってくる仲間に豊かさがある。いい意味で「わがまま」、好奇心の強い人が多いとのこと。 余談ですが、私の里の祖父母も80ながら農業をライフワークとし未だ現役です。住まいは大層な持ち家です。 |
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ぐるりと回りながらもう一箇所。 ■兵庫県建築士会青年委員会 川沿いにススキなどを植え、これを茅葺きの材料とし、葺替えまでの流れを説明していただきました。昨日した慈恩寺の茅葺き屋根がまだ頭に残っていました。 |
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式典は、山形県建築士会会長の挨拶に始り、演壇に上がられた方々の言葉には、建築士と市民とが一体となり、モノからまち、暮らしづくりへと開かれていくこと、建築士のあり方として一層の技能向上と、社会的責任について述べられていました。 身の締まる思いで聴いておりました。 晴れやかな演奏とともに衣装に身を包んだ佐賀県建築士会の大勢の踊りで幕をとじました。 来年の大会開催は佐賀県とのことで決死のアピール作戦でした。 |
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岩手建築士会のバスに同乗させていただき、山形市から少しバスで北上、将棋で有名な天童に向かいました。 1984年に大分と岩手は姉妹建築士会調印式を行っており、以来大会が九州、東北で開催の年には、交流会を行っており、今回で第7回になります。 岩手県建築士会の以前の会長が大分県の出身であったなど、大分と岩手にはいくらか接点があるようでした。交流会がはじまり、東北など寒冷地の建築の違いや、連ドラ「どんど晴れ」の話など、ここでも芋煮が出され本日3杯目でした。 ここでも一同記念撮影。岩手勢は宿泊なしで、山形→岩手の夜間ドライブとのことで、帰るバスに手を振りました。次回佐賀は大分勢がご案内いたします。 |
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10月17日 | |
早起きをして将棋の土産を探しに、栄春堂という店舗に向かいました。 朝8:00から営業しており、私は「左馬」のキーホルダーを購入しました。 倉津川にかかる橋は王将橋から飛車橋まで。昨夜の宴会会場は「王将ビジネスホテル」。将棋の駒の名称は「餃子の王将」ぐらいかと思っていました。 |
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ホテルに戻る道の上。 詰め将棋…7手詰か いや、違うか。 |
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今日は見学する箇所が多いため、急ぎ足です。一気に南下して最南端の米沢に向かいます。
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明治43年竣工、日本で第7番目の高等工業学校であり、現在の山形大学工学部の前身となっています。 昭和54年より約4年間の修繕工事が入り現在にいたります。 初日見学した文翔館同様ルネッサンス様式を基調としています。 |
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学生の頃を思い出し、大学の敷地の傍らにこんな建物があったらなと、うらやましく想いました。 |
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樹齢400年といわれる杉の立木に囲まれた参道が真っ直ぐ伸びています。 | |
歩いていくと、上杉家歴代の廟に突き当たります。廟は参道に対して垂直にずらりと並んでいます。 写真は正面向かって左側を写しています。一番手前が天地人でも有名な2代目上杉景勝の廟です。その隣、写真では切れていますが、中央が上杉謙信の廟です。 |
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没後も越後から合津、米沢へと戦などの度に霊柩を移動したとあって、ゆりかごから墓場の後まで戦国時代の聖将らしく慌ただしいようです。
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今回の旅においては、唯一新しい現代の建物です。
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建坪285坪の純日本風の邸宅。 |
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庭は東京浜離宮に依って造園されたそうです。 | |
比較的新しい?神社で明治4年の創建であり上杉謙信を祭っています。これも大火により、本殿以下全焼し、伊藤忠太の設計で大正12年に再建されています。
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敷地内で火縄銃の実演が行われており、ドンッ!とびっくりするぐらい大きな音をたてていました。眠っている上杉謙信が目を覚ますのではないだろうか。 | |
敷地内で火縄銃の実演が行われており、ドンッ!とびっくりするぐらい大きな音をたてていました。眠っている上杉謙信が目を覚ますのではないだろうか。 |
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歴史的な建物の多い3日間となりました。単に建築物として見るにとどまらず、時代背景や関連する人物、宗教などの知識を通してみると多様な見方ができ、より広がりを持つように思いました。 |
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